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 居辺小(中)学校 

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 居辺小(中)学校   池田町字常盤431
明治38年創立、平成7年3月、90年の歴史に幕を閉じ高島小学校へ統合した。
卒業生719名、閉校時の児童は11名、校長は松田昭氏であった。
校舎前に「学窓居辺」の碑を建立、揮毫は池田町長大石和也である。
本校は昭和25年中学校を併設、同43年3月閉校した。
校地内に実習畑を持ち、コイの養殖などに取り組んだ。また、平成4年からは読書指導に力点を置いた。

 我等が学校    第43回生(25年卒)  萬 繁昭
 昭和20年も半ばの頃、当時の校舎は木造であった。床板も壁も、至るところ隙間が目立った。大掃除は年に2・3回決まった時期に行われていた。井戸からカラカラとつるべの音を響かせて水を酌み、バケツで思いっきり床にばら撒き、縄たわしでゴシゴシやるのである。作業中、木の破れに手を刺すけがも絶えなかったが、そんな事は平気であった。冬は隙間に新聞を張り、石炭ストーブを焚いたが、授業中に股の間に手を入れて、寒さをこらえての勉強であった。
 こうした校舎も、地域の人々にとっては、欠かす事のできない文化センター的な存在、中でも青年主体の演芸会、百人一首大会はメーン行事だった。ある年の演芸会、バック絵を、画家を招いて描いてもらう熱の入れようだった。「星のきらめく夜空にビルが聳え立つ」そんな絵だった気がする。観客は家族総出で防寒具に身を包み、寒さを忘れて名場面には声援を送るのである。
 正月も明けると、百人一首の輪が広がった。教室の仕切りを外し、幾つものチームが額を寄せ合い、腕を競った。子ども達が混ざったチームも珍しくない。「待った、待った」の声が激しく飛び交い、読み手を困らせたものである。昭和20年代、人々にとってまさに「我等が学校」であった。         閉校記念誌より

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