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鹿美中学校

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     鹿美中学校   鹿追町美蔓番外地

 昭和24年創立、昭和43年3月、19年の歴史に幕を閉じ鹿追中学校に統合した。
卒業生は415名、閉校時の生徒数は44名、校長は鳥居大路正平氏であった。本校の通学区は美蔓、上然別、下鹿追地区であるが、学校の設置位置を巡って対立があった。学校は台地の突端標高200mに位置し、水利に恵まれず、井戸掘り作業中事故死が出るなどの悲劇を生んだ。校舎は解体され、校長住宅のみが残っている。


  『水』との闘い19年の歩み
 (前略) 3代目校長谷内松三郎は昭和27年2月着任、「高台に建つ校舎はまるで要塞堅固なお城のようだった」と語っている。着任してみると苦しい事ばかり、まず第1に学校の敷地内に水が出ない、裏の沢からバケツで汲み上げる始末である。鹿追橋付近に学校を移転すると言ううわさが聞こえた。また水脈を探し、3ヶ所も井戸を掘ったが遂に水は出なかった。ある時は札幌から電波探知機を持ってきて地下水を探索した。その結果60尺下の沢に清水が沸いていることが分かった。(中略) 次に赴任したのは小山政治校長だが、この校長も「水に始まり水に終わる」と当時を述懐している。前年の秋、ようやく崖上まで揚水した施設が凍結、故障の連続で生徒90名、女子の裁縫生徒50名、それに職員の5世帯が寒中揚水不能となり、下の沢水を背負って上げるのが大変だった。昭和37年の風水害の復旧工事で第1ポンプ室と石垣25mの揚水施設が公費で完備し、一応の解決を見た。
 最後の校長鳥居大路正平氏は閉校誌の巻頭に次の様に記している 19年の歴史ここに閉じる /  われ等の学び舎に集いし友450人
 情熱を傾け そして去った教師32人 / 無水と闘い 教材教具作りに汗し 学習に励んだあのとき / 心の結びつきは永遠に消えず 
 巡り来る夜明けに夢を託す…           鹿追町史より

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