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 光地園小(中)学校

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学校跡から日高山脈を望む

 光地園小(中)学校   大樹町字光地園
昭和25年創立。終戦後樺太引揚者有志がこの地に新天地を求めた。団体14戸の外に、製炭業者も立木資源に着目し戸数30戸、150名の住民を要し、学校建築に着手した。 海抜350m、大樹市街より20kも離れた辺地ではあったが人々は、同園の地域開放を夢見、広い未開の台地の開拓に希望を託した。
 昭和27年中学校を併置、29年台風のため校舎が半壊したほか度々の冷害の被害は子供達の生活に大きな影響を与えた。昭和30年代、冷害の現況はマスコミを通じて全国に報道され、激励の手紙や品物が次々に寄せられた。また、金沢大学の呼びかけで「集団里子」として小学生7名、中学生7名が金沢に送られた。
昭和43年3月、小・中学校同時閉校、尾田小・中学校へ統合した。閉校時の小学生は7名、中学生は9名、校長は山口二郎氏であった。

 思い出すままに    第3代校長 山口 二郎 (40〜43)
 ずいぶん古いことで記憶も定かでないが、今でも心に残っていることは「光りは大地から」の希望をいただき部落名もこれに因んで「光地園」と名づけ、38戸が入植したのが昭和22年、その固い約束も冷害などの自然災害や、時代の流れには抗すべくもなく、多くの人々がこの地を去って行った。
 始めての僻地校,運動会当日花火打ち上げと同時に霧が流れ始め、霧の中での運動会であった。また冬の一夜、前夜来の雪がやまず朝になっても真っ暗である。屋根から地面まで雪に埋まっている。臨休を考えていると校舎の方で子供達の声。聞くと、部落の人達が馬に角材を引かせて通学路を空けてくれたとのこと。また、ある団体から製パン機の寄贈があり完全給食実施。賑やかな笑い声と共に、パンを焼く香ばしい匂いが校舎に流れ始めた。特に心に残っていることは、去っていく友を見送る子供達の姿である。子供の作文の中に「…20年間光地園を築き上げた人達が、一鍬一鍬耕した広い土地をなぜ捨てたのか、私には分からない。ここはやがて国営牧場になる気配も見られる。雄大な日高山脈の麓はどう変わっていくのだろうか」と記されたのが印象深い。
                        

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